Archive for the 'Language stickler’s syndrome' Category

Or otherwise…

成田空港を利用した時いつも思うこと。

空港のトイレにこんな注意書きが貼ってあります。
成田空港のトイレの注意書き

備え付けのペーパー以外は流さないでください。
トイレが使用できなくなる恐れがあります。

Do not flush anything other than the toilet paper
provided, or otherwise the pipe will be clogged.

そしてこの注意書き、よく見るといつも必ず誰かが校正を施した跡があります。
英文の or のところをペンで消してあるのです。

Do not flush anything other than the toilet paper
provided, or otherwise the pipe will be clogged.

もちろん男性トイレは使ったことがないし第2ターミナルもほとんど利用しないので、そちらでもこうなっているのかはわかりませんが、少なくとも第1ターミナルの女子トイレではどこに入ってもこの書き込みがあります。上の写真だとよく見えませんが、これもボールペンで or の上に線が引かれています。もっとしっかりぐりぐりと黒く塗りつぶされている場合もあります。

誰がペン入れをしたのか?利用客か?それとも空港職員?1人の人がやっているのか?誰かがペンを片手にターミナル中のトイレを回り、 or を消して回ったのか?それとも複数の努力の成果なら、申し合わせてやっているのか、あるいは誰か1人が始めたのを見て他の人も真似し始めたのか?女子トイレなのだから女性なんだろうけど、どんな人なのか?男性トイレでも同じことが行われているのか?・・・疑問は尽きません。

いずれにしても、「間違い英語が国際空港に氾濫しているのが我慢ならない」という人がいたんでしょうねえ。

この注意文、確かに or と otherwise はどちらも同じ意味なので、両方とも入れるのは無意味で、どちらか片方でこと足ります。

しかし、ではどちらを取り除くべきかというと、謎の校正者には申し訳ないのですが、文法的には or を残して otherwise を消した方が正しい。

なぜか? or は文法的には接続詞だが otherwise は接続副詞。使い方が違います。 or は接続詞なので文中で節と節を結びつけるのに使うことができますが、 otherwise は接続副詞で、文法的には副詞。独立した文の導入に使ってその文と直前文を意味的につなぐことは出来るが、節と節の直接接続には使えません。トイレの注意書きで or を捨てて otherwise を残すなら、構文そのものにも手を加えて2つの文に分割する必要があるのです。

(正) Do not flush anything other than the toilet paper
provided, or the pipe will be clogged.
(誤) Do not flush anything other than the toilet paper
provided, otherwise the pipe will be clogged.
(正) Do not flush anything other than the toilet paper
provided. Otherwise, the pipe will be clogged.
(正) Do not flush anything other than the toilet paper
provided; otherwise, the pipe will be clogged.

ちなみに、4番目の例は2つの文に分割されていなくて、一見2番目の文とあまり違わないようですが、句読点の使い方が違います。これは実は3番目の2つに分割された文をセミコロンによってつなぎ直したもので、ピリオドの代わりにセミコロンを使うことで、2つの文が意味的につながっていることを示しているのです。

セミコロンは日本語にはない句読点なので使い方がわかりにくく、また英語ネイティブスピーカーにとってもこの使いこなしは上級技だとされていますが、セミコロンの代表的な用法がこの、「2つの構文的に独立した文の間に置いて、両者の内容に関連性があることを示唆する」というものです。
例えば、
He was late for work. He had too much to drink the night before.
(仕事に遅刻した。前の晩飲み過ぎた。)
では彼に関する情報が2つ提示されているだけですが、
He was late for work; he had too much to drink the night before.
(仕事に遅刻した。前の晩飲み過ぎたのだ。)
とすると、このセミコロンひとつで2つの文の間に「夜飲みすぎたから翌朝遅刻した」という因果関係があることが示唆できます。なかなかスパイスの効いた優れものの句読点なのです。

なお、トイレの注意書きに戻ると、上記で(正)とつけた3つの回答、あくまでも「文法的に正しい」ということです。
では日本語の注意書きの英訳として正しいか?ということになると、実はまだいまひとつ違う感じ。接続部分を直しただけでは直らない問題が残っているのです。

この英語の注意書き、日本語に訳してみると、こんな感じの文になります。

備え付けのペーパー以外は流すな。
さもなくば、パイプが詰まることになるぞ。

この注意書きの
“Do not ~, or … will ~”
という構文、「~しないと~になるぞ」という意味で、ぶっちゃけて言えば脅しです。
ドラマなどで警察に追い詰められた犯人が近くにいた子供をがばっと捕まえて首にナイフを押し付け、「動くな!動くとこいつが死ぬぞ!」と怒鳴る、という場面がありますよね。あれが英語だと
“Don’t move, or she’ll die!”
これと基本的には同じ構文です。まあ脅迫とまではいかなくても、親が子供に「野菜を全部食べないとデザートは無しだよ」とか「宿題しないんならゲームは取り上げるからね」とか言う時の調子の「ペーパー以外のものを流すとトイレが詰まるよ」です。
「さもなくば」という意味のある or/otherwise はそういうかなり高飛車なニュアンスがあるので、前半がお願いで後半がその理由の説明、という日本語の原文とは明らかに違っています。
さらに、日本文は
「備え付けのペーパー以外は流さないでください。
トイレが使用できなくなる恐れがあります」
だからあくまでも「恐れ」、可能性の話を念頭にお願いしている文です。一方英文の方は
「ペーパー以外のものを流すと必ずトイレが詰まることになるぞ」
と言っていて、確実な帰結として断定しています。

というわけで、直すならこんな感じかな?

Please do not flush anything other than the toilet paper
provided as it may cause clogging.

※「ふつう紙以外にも流すものがあるでしょ」とか突っ込みどころは残ってますが、まあそれは日本語文も同じなので良しとしましょう。

Robert Burns Lost in Translation? / ロバート・バーンズ不人気は悪訳のせい?

Mixiの翻訳・通訳関連コミュニティで、「翻訳で失われゆく原文の意味」と題する、翻訳で恥をかいた企業についてのMSNのコラムというのが紹介されていた。

http://englishtown.msn.co.jp/sp/teacher.aspx?articleName=118-lost&Ctag=118-lost

誤訳に関する笑い話にはことかかない。私が所属している英国翻訳通訳協会(ITI)の会誌には、”Onionskin” と題した誤訳に関する連載コラムがあって読者の現役翻訳者・通訳者やそのたまご達に大人気だし、日本社会に氾濫する誤訳や珍英語についてはwww.engrish.comというサイトもある(もっとも最近は中国や韓国の例の紹介が増えてきているようだが)。

だがこのMSN記事、読んでいてなんだか違和感を感じないだろうか?
で、気がついてGoogle検索してみたところ(Googleは翻訳者にとって重要なツールのひとつ。・・・という話はまた後日に)、出てきたのがこれ。

http://englishtown.msn.co.jp/sp/teacher.aspx?articleName=118-lost&Ctag=118-lost

つまり、先の記事はこの英語記事の和訳だったわけだ。違和感の原因は、日本人読者を想定して書いたものではない記事を和訳したものであることからきていたのだった。

この記事で特に私の注意を引いたのは、後半に出てくる「バーンズの詩の日本語訳」の話。バーンズと言えばスコットランドの国民的詩人。今年は折りしもスコットランドでバーンズ生誕250年をネタに大々的な観光客誘致キャンペーンを実施中だ。スコットランド+翻訳となると完全に私のテリトリーだから無視できない。

そもそもこの記事がいうところの「日本語版のバーンズに起こった悲劇」、本当のところはどうなのか。

記事で引用されているのは、Address to a Haggis と題された詩の冒頭部分である。その邦訳は本当にそんなにひどいのか?検証してみよう。

引用されている部分の原文は、
“Fair fa’ your honest, sonsie face,
Great chieftain o’ the puddin-race!”

英語が得意な人が読んでも、実はこれ、よくわかんないだろうと思う。「fa’ って何の略だよ、sonsie なんて単語、英和辞書に載ってねえじゃん」ということになる。それもそのはず、この詩は英語ではなくスコットランド語で書かれているのだ。

ではこの冒頭部分を英語に訳すとどうなるかというと、
“Fair full your honest, jolly face,
Great chieftain of the sausage race!”
となる。
(出典:http://www.worldburnsclub.com/poems/translations/address_to_a_haggis.htm

邦訳のバーンズ詩集が手元にないので、ネットで日本語訳を検索してみると、こういうのが出てきた(訳者確認できず)。
「正直なおまえの笑顔に幸いあれ!
腸詰め一族の偉大な王よ」
(出典:http://www.bepal.net/h_0401song/03.html

で、この邦訳を英語に訳し戻したのがMSN記事の
“Good luck to your honest friendly face, Great King of the sausages.”
であり、さらにそれを再び日本語に訳し戻したのが和訳版記事の
「あなたの率直で親身な顔に幸あれ、ソーセージの偉大なる王よ。」
となるわけだ。

では原詩の英訳
“Fair full your honest, jolly face,
Great chieftain of the sausage race!”
と邦訳の
「正直なおまえの笑顔に幸いあれ!
腸詰め一族の偉大な王よ」
でそんなに大きな差があるかというと、まあ「幸いあれ」は完全に意訳だが、「ハギスに捧げる」という賛美の詩であることを考えれば充分許容範囲だし、chieftain が王に格上げされていたりといった細かい違いも特に大きな問題ではないだろう。翻訳が粗悪なのが原因で原詩の魅力が失われている・・・とはどうも思いがたい。だってこれ、原詩だって充分ヘンでしょう。「腸詰一族の偉大なる族長よ」ですよ。訳でも充分そのヘンさは伝わってると思う。

この詩の魅力は、ハギスというまるっきりふつうの庶民的な食べ物を、スコットランドの田舎言葉でまじめな顔して思いっきり過大に賛美しているおかしさだ。たとえば秋田弁で「きりたんぽを讃える」とか、大阪弁で「たこ焼きに捧ぐ」なんて詩があったらと想像してほしい。で、年に一度の記念日に、このコテコテ賛美詩を朗誦しながら、きりたんぽなりたこ焼きなりを一同にふるまうセレモニーを行い、みんなでいっせいに食べるのである。ね、笑えるでしょ?そもそもハギスという食べ物を聞いたこともないし、バーンズナイトでハギスにナイフを入れる儀式も見たことない人にこの詩がよくわからないのは、いわば当然。誤訳や悪訳のせいにするのはおかど違いだろう。

「Lost in Translation/翻訳で失われゆく原文の意味」というこの記事のタイトル、記事自体にこそ当てはまるような気がするのだが。

そもそも日本でバーンズの詩がそれほど知られていないのは、スコットランド民謡が日本に導入された時に行われた「バーンズ外し」に原因がある。例えばこれ。
http://www.youtube.com/watch?v=FyDTVwR8V7A
新年が明けたときに世界中で歌われているこの歌、スコットランド民謡 “Auld Lang Syne” である。この詩を書いたのがロバート・バーンズ。が、日本人がこの歌を聞くと、「ああ、蛍の光ね」と思ってしまう。そもそも毎年NHKの紅白歌合戦の最後に卒業式の歌であるはずの蛍の光を歌うのはなんでだろう、と思ったことありませんか?これはAuld Lang Syneを歌いながら新しい年を迎えるという世界的な慣習を踏襲したものなのだ。 “Auld Lang Syne” はこれまたスコットランド語で、英語にすれば “Old Long Since”。日本語では「久しき昔」と訳されているようだ。その内容は、「昔馴染みと一緒に杯を空け、古きよき日を思いつつ乾杯しようじゃないか」という飲み会ソングである。
が、この歌が小学唱歌として日本に紹介された時に、原詩とは全く関係のない歌詞が新たに作詞され、「蛍の光」という勤勉を讃える卒業式の歌に変身したのだ。

同様の例に、「故郷の空」という歌がある。これも小学唱歌だがもともとはバーンズの詩で親しまれているスコットランド民謡 “Comin Thro’ The Rye”。「故郷の空」の小学唱歌版歌詞は遠い故郷の家族を懐かしむ詩で、太平洋戦争中の兵士の愛唱歌だったと聞くが、バーンズの詩は「ライ麦畑を通り抜けて出会った2人がキスしたっていいじゃないか」というかなり軽薄な内容。ドリフターズが昔歌った「誰かさんと誰かさんが麦畑・・・」という替え歌の方が、原詩の訳ではないけれど原詩の意図にはずっと近いのだ。

英国ロマン主義文学の先駆けと紹介されることが多いロバート・バーンズだが、素顔のバーンズは熱血正義漢の貧乏青年農夫(苦労がたたって37歳で病死している)である一方、酒好き、女好き、冗談好きの若者だった。作品にもそういう彼の人柄・性格がよく表れていて親しみやすい。文学史に名を残す詩人という触れ込みにこだわらずにぜひ作品を読んでみてほしい。
バーンズ詩集 (岩波文庫 赤 215-1)
ロバート・バーンズ詩集

推定跡地


霞ヶ関の官庁街を歩いていたら、「霞が関跡」と書かれた案内柱を見つけた。説明が書いてあるので読んでみる。

この辺りは、江戸時代、霞が関と呼ばれ、武家屋敷が建ち並んでいました。
ふんふん。

その名は代々受け継がれ、現在では中央官庁街の代名詞になっています。
代名詞って・・・住居表示も「霞ヶ関」ですけどね、この辺。

霞が関は、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の中にあったといわれていますが、正確な場所は分かっていません。
はぁ?

今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区・多摩市・狭山市が考えられています。
千代田区・多摩市・狭山市? 全然ばらばらじゃん。

千代田区に霞が関があったとの説は、『武蔵野地名考』という資料の・・・[略]・・・往古の奥州街道にして、関門のありし地なり』という記述から導き出されています。

・・・じゃあ何かい? 霞ヶ関の地名の由来は霞が関という名前の関所だけど、霞ヶ関に本当に霞が関があったかどうかは実はわかってなくて? 狭山とか多摩とか全然違う場所にあった可能性もあって? 霞ヶ関は霞が関とは縁もゆかりもない土地だったということも有り得るわけ? だけど江戸っ子たちはあくまでここが霞が関跡だと主張して? それを受けて今じゃ規定事実で地下鉄の駅も住居表示もみんな霞ヶ関にしちゃってるっつーこと? 本当の霞が関は本当は狭山か多摩かもしれないのに?

いいかげんだなー。

もしかしたら本当の霞が関跡が埋もれているのかも知れない狭山や多摩には、「霞が関」とか「霞ヶ関」という地名は残ってないんでしょうかね?

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